殷基の『通語』では、孫和派と孫覇派に分かれて争っていた二宮の変において左将軍の呂拠は孫覇派に加担していたとある。しかし、二宮の変当時や、その後にも呂拠は左将軍にはなっていない。
二宮の変当時の呂拠は、偏将軍もしくは越騎校尉で251年に盪魏将軍へと昇進している。そして孫亮が即位した時に右将軍となっていて左将軍になった形跡はない。
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呂拠が左将軍になった形跡がないということは、『通語』では右将軍と左将軍を書き間違えたということがいえます。
しかし『通語』で呂拠以外の人たち(特に呂岱)は246年前後に就いていた官位官職で書かれているので、一人だけ孫権死後の官位で書かれるというのも変な感じがします。
もしかすると当時に左将軍になっていた別の誰かと勘違いされて書かれたということも考えられます。
さらに言えば、呂拠と朱拠を勘違いして出来事なども『通語』の勘違いにあわせて陳寿が呉書の本文を修正し呉志を書いた可能性も出てくるのです。
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つまり孫覇派とされた呂拠は孫和派で、逆に朱拠が孫覇派であったかもしれない可能性がでてきます。
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