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『甘寧の濡須夜襲時期について』

濡須防衛で甘寧率いる決死隊による夜襲が行われたのは何時かという議論がたまに見受けられる。

曹操が孫権討伐のために濡須に攻めよせてきたのは、
  • 建安18年正月 孫権軍都督の公孫陽を捕虜とした時。
  • 建安19年7月 武帝紀註『九州春秋』で、参軍の傅幹が諫言した時。
  • 建安22年1月 居巣に到着し 2月に郝谿に布陣し濡須を攻撃し3月に軍を引いた時。 
以上の三回。


今回この問題解決のために着目するのは甘寧配下の兵士数。

甘寧は元々数百人の部下を率いていました。
赤壁後の南郡攻略時に夷陵を占拠したときに五百~千人程度。
皖城を攻略した時にの配下の人数は不明。
関羽を益陽で留まらせた時は三百人の配下を持ち、それに魯粛が千人を加える。
(この時の千人は、後に魯粛の元に戻されたと思う)
濡須の夜襲時、百余名。(江表伝では兵士の中から100名を選んだとあるのでもっと多い可能性もある)

夜襲成功の後、甘寧は二千人の兵士を与えられたとある。このように夜襲成功で配下の兵士を加増されているのに、建安20年の益陽で関羽を足止めする時に300人しか連れていないのは不自然である。

なので配下の兵士数だけでみれば、甘寧が夜襲をした濡須防衛は建安22年の事だという結論に達した。
2020/11/15
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