三国志を中心にした中国史を調べて適当に思いついた事を綴ったサイト
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『甘寧の死亡時期について』

正史三国志では、甘寧の正確な死亡時期は分からない。
ただ健康実録にはこうある。
「建安二十年 ~(略)~ 冬、折衝将軍、升城督甘寧卒」
明確に建安二十年(215)に死亡していると書かれている。

ただこの記述を鵜呑みにすることはできない。

建安二十年死去が本当であれば色々なところで辻褄が合わなくなってしまう。
建康実録では建安二十一年を合肥の戦いが行われた年だとしている。
この場合、健康実録自体にも書かれている「曹操に張遼がいて、わしには甘寧がいる」
という言葉が出てくる理由が分からなくなる。

孫権と張遼が相対したのは合肥の戦いが初めてであったはず。しかも孫権は張遼に追い回されたからこそ、張遼を意識するようになったのではないか。それくらいでなければ、「曹操には張遼がいる」という発言は出てこないのじゃないかと思う。。

甘寧伝には合肥の戦いに参加した時の様々なエピソードが登場する。
建安二十年死去では、翌年の合肥の戦いに参加は不可能。

以上の理由で、建安二十年の冬に死去したという建康実録の記述を史実だろうというスタンスで
このサイトの年表での採用はできない。

加えて潘璋伝では、関羽討伐戦の記述の後、夷陵の戦いの記述の前に、甘寧が死亡しすると配下の兵を併せて指揮したとある。

潘璋伝では甘寧伝のように記述の順番を疑う特段の理由が無いので、潘璋伝の記述通りとして建安24年前後が甘寧が死亡した時期だろうと推測する。

2020/11/19
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