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『陸遜の荊州牧就任への疑義』 |
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三国志 陸遜伝には夷陵の戦い*1の後に、
「加拜遜輔國將軍,領荊州牧,即改封江陵侯」とある。
※1―黄武元年(222)の事。
その前の記事の註『呉書』には、
「吳書曰:權嘉遜功德,欲殊顯之,雖為上將軍列侯,猶欲令歷本州舉命,乃使揚州牧呂範就辟別駕從事,舉茂才」とある。
ここで制度的時系列上の矛盾が発生する。
呂範が陽州牧になったのは黄武2年(223)の洞口の戦いが終結した後の事。
記事通りであるならば、黄武元年に荊州牧となっている陸遜が陽州牧の呂範に別駕従事として辟召されて茂才に挙げられたという事になる。
同格である州牧になっているはずの陸遜が、揚州牧の呂範の別駕従事*2になっているとはおかしな話。通常あり得ない事なので、陸遜伝と呉書の記述のどちらかが間違いという事だと思われる。
※2―別駕従事は刺史や牧の補佐役
おそらくは呉書の方が正しく、陸遜伝が間違っている。
なぜなら後年、武昌にて左部と右部が設けられて呂岱と陸遜が片方をそれぞれ職務を受け持ち荊州の諸事を処理している。陸遜が荊州牧に就いていたのであれば、荊州の長官である陸遜の下にそのような部署が設けられるのではないだろうか?
荊州に諸葛瑾・朱然・潘璋らが駐屯している状態で、長官職を据えることができるのかはなはだ疑問に思う。
そこで私は建康実録にある郢州牧が陸遜の本当に就いた役職であり就任した年も黄武元年(222)ではなく黄龍元年(229)の事だと予想する。
陸遜が州牧に就任した年を黄龍元年だとした理由は、陸遜が上大将軍に任じられた年と同じくして大将軍に任じられた諸葛瑾が黄龍元年に初めて州牧に任じられたため。
発掘された長沙走馬楼呉簡にて、陸遜が郢州牧であったことが判明。
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改定 2020/11/27 |
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