三国志を中心にした中国史を調べて適当に思いついた事を綴ったサイト
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◆呉史論衡 『甘寧伝の時系列』

 三国志は時系列を順番に書かれておらず話が時折過去に飛んだり複数年にまたがる場合がある。特に呉志ではそれが顕著で、気お付けて読まないといけない。
例に甘寧伝をだす。伝の記事は書かれている順番どおり。

「三国志 甘寧伝」
肅便選千兵益寧,寧乃夜往。羽聞之,住不渡,而結柴營,今遂名此處為關羽瀨。權嘉寧功,拜西陵太守,領陽新、下雉兩縣。

第一次荊州進攻時、益陽で関羽の進軍を止めた。
第一次荊州進攻は建安20年(215年)の事。

後從攻皖,為升城督。寧手持練,身緣城,為吏士先,卒破獲朱光。計功,呂蒙為最。寧次之,拜折衝將軍。

皖城を攻略。
皖城攻略は建安19年(214年)の事。

後曹公出濡須,寧為前部督,受敕出斫敵前營。權特賜米酒眾殽,寧乃料賜手下百餘人食。食畢,寧先以銀盌酌酒,自飲兩盌,乃酌與其都督。都督伏,不肯時持。寧引白削置膝上,呵謂之曰:「卿見知於至尊,熟與甘寧?甘寧尚不惜死,卿何以獨惜死乎?」都督見寧色厲,即起拜持酒,通酌兵各一銀盌。至二更時,銜枚出斫敵。敵驚動,遂退。寧益貴重,增兵二千人。
江表伝で、100人での奇襲成功した後に「曹操には張遼がいるが、自分には甘寧がいる」という記事があるので、張遼にしてやられた後の事件だと思う。なので、合肥の戦いの後の濡須口の戦いだと判断できる。

第二次濡須口の戦い。甘寧が手下100人で奇襲。
第二次濡須口の戦いは建安22年(217年)の事。

建安二十年,從攻合肥,會疫疾,軍旅皆已引出,唯車下虎士千餘人,并呂蒙、蔣欽、淩統及寧,從權逍遙津北。張遼覘望知之,即將步騎奄至。寧引弓射敵,與統等死戰。寧厲聲問鼓吹何以不作,壯氣毅然,權尤嘉之。

再び建安20年(215年)に戻る。

記事の時系列は、建安20年・19年・22年・20年となっている。
最後に料理番を射殺すエピソードがあるが、年次は不明。
この様に記事内容の時系列がバラバラになっているのである。
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