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◆呉史論衡 『甘寧の不自然な昇進』

 甘寧は呉の猛将で、最前線にて輝かしい武功をあげます。その華々しい活躍の為に気に留められる事が少ないことなのですが、甘寧の昇進には不自然な早さがあるのです。

 213年(建安18年)朱然が、折衝校尉から偏将軍に昇進
 214年(建安19年)甘寧が、皖城攻略後に折衝将軍に昇進
 上記の通り、214年に甘寧は皖城攻略の功績で折衝将軍に昇進します。折衝将軍は雑号将軍で現在の研究では偏将軍の上位だと目されています。
 214年の皖城攻略直後、確実に雑号将軍になっていたのは孫氏親族や朱治などの孫策独立時の功臣だけ。魯粛も皖城攻略後しばらくたってからで呂蒙や蒋欽も215年にあった合肥の戦い後に雑号将軍に昇進します。(下記年表参照)
 214年(建安19年)甘寧が、皖城攻略後に折衝将軍に昇進
 214年~215年 皖城攻略のしばらく後に、魯粛が横江将軍に昇進
 215年(建安20年)甘寧が、魯粛の指揮下で益陽を守備
 215年(建安20年)呂蒙が、合肥の戦い後に虎威将軍に昇進
 上記年表を見ますと、新参者の甘寧が一時的に朱然・呂蒙・魯粛の上位となります。215年の荊州進攻時では、将軍位でありながら1000に満たない手勢しか率いておらず魯粛の指揮下に入っています。率いる兵が少なすぎますし、自分の後から同位となった魯粛指揮下に入るのが不自然に見えます。
【総論】
 いくら猛将で華々しい戦果を挙げたとしても、こんなに早く新参者の甘寧が重臣と同列になったり呂蒙や魯粛を追い抜くとは思えません。おそらくは、誤りであるか官位を盛ったのではないかと推測します。
 朱然の事を一番上の年表で出しました。折衝校尉から偏将軍への昇進です。それを見て思うに、甘寧は朱然の後任として折衝将軍ではなく折衝校尉に任じられたのではないかと思うのです。そう考えれば、呂蒙・魯粛を官位が追い抜くことも無く、納得の行かなかったところの辻褄が合うのです。
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