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◆呉史論衡 『呉の尚書令 陳化』 2015年6月

呉志 孫権伝註より
吳書曰:以尚書令陳化為太常。
<訳>
呉書曰く 尚書令の陳化を太常とした。
呉書から引用註はコレのみ。
黄武四年(225)に顧雍が丞相に任じられた記述の後につけられている。なので黄武四年の出来事なのだろうと思う。
呉志 孫権伝本文より
化字元耀,汝南人,博覽眾書,氣幹剛毅,長七尺九寸,雅有威容。

為郎中令使 魏,魏文帝因酒酣,嘲問曰:
「吳、魏峙立,誰將平一海內者乎?」

化對曰:「易稱帝出乎震,加聞先哲知命,舊說紫 蓋黃旗,運在東南。」

帝曰:「昔文王以西伯王天下,豈復在東乎?」

化曰:「周之初基,太伯在東,是以文王能興 於西。」

帝笑,無以難,心奇其辭。
使畢當還,禮送甚厚。
<訳>
陳化の字は元耀といい、汝南の人である。多くの書物を読み、剛毅な性格であった。七尺九寸の身長と気品ただよう容姿を持っていた。

郎中令となり魏への使者となった。魏の文帝は酒の勢いで戯れに質問した。
「呉と魏は対峙しているが、どちらが天下を平定し統一するだろう?」

陳化は答えて言う「易に帝は震に出るとあり、加えて天命は先哲の古い説で、紫の天蓋と黄色の旗の運気は東南にあると聞きます。」

文帝いわく「昔、(周の)文王は西伯から天下の王となった。それでも東にあるのか?」

陳化曰く「周の礎は、(呉の)太伯が東にあり、そのため文王は西において勃興することが出来たのです」

文帝は笑い、それ以上は難題を出すことは無かった。
使者の役目を終えて帰る時には(魏より)手厚い送礼を受けた。
權以化奉命光國,拜犍為太守置官屬。頃之,遷太常, 兼尚書令。
<訳>
孫権は陳化を立派に役目を果たし国の威厳を際立たせたとして、犍為太守に任命し属官をおいた。すぐに太常となり、尚書令を兼任した。
犍為郡は益州管轄の郡。つまり犍為太守とは遥任である。

「置官屬」という表現は、三国志の中では曹丕が五官中郎将になった時のくだりにしか見られない。石井仁先生の解釈では、曹丕の「置官屬」は開府に準じる物で私的幕僚を置けるようになった事だとしている。

太守は一般的に太守府という幕僚を持つ官職なので「置官屬」と言う表現は、この場合は違うことを指した言葉なのかもしれない。
ただ、ここの訳においては属官を置いたという訳表現に留めた。

太常はの役は黄龍二年前後に潘濬が任じられているので、太常の兼任は解消されたものと思われる。
正色立朝,敕子弟廢田業,絕治產,仰官廩祿,不與百姓爭利。
妻早亡,化以古事為鑒,乃不復娶。權 聞而貴之,以其年壯,敕宗正妻以宗室女,化固辭以疾,權不違其志。
<訳>
厳正厳格に朝廷や職務に当たり、子弟を戒めて荘園業を辞めさせ財産を築く事が出来ないようにし、官の俸禄だけで生活して人々と利益で争わないようにした。
妻を早くなくした陳化は、故事に倣って再婚していなかった。孫権は、それを聞くと立派な事だと思い、宗正に命じて宗室の娘を娶わせようとした。それを陳化は病気を理由に固辞し、孫権はその思いを尊重して取りやめた。
宗正の官とは皇室一族の戸籍管理などを司る官職。
孫権が王位もしくは帝位に就いた後の出来事だと推定できる。

曹操が魏王になった時も魏王国に宗正の官が置かれたので、曹操と同じく孫権も呉王になる時に曹丕から九錫を受けたので、宗正が置かれたという判断もできた。
年出七十,乃上疏乞骸骨,遂爰居章安,卒 於家。
<訳>
七十歳を過ぎて上疏をして引退を願い、章安に隠居して家で死去した。
孫権が一族の娘を娶わせようとしたのが、陳化が壮年の頃。
220年代の陳化は、30代~40代だったという事。
黄武四年(225)に壮年と呼ばれる限界の44歳ほどだと考えても、陳化は赤烏十三年(250)まで確実に生きていたという事になる。そう考えると、後の尚書令の厳畯は、かなり遅い時期に復職したということになってくる。
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