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◆呉史論衡 『史上最高齢の大司馬 呂岱』 

ちくま学芸文庫の三国志を参考に三国志集解と建康實錄を確認しながら呂岱伝を考察。翻訳が主目的ではないので省略している箇所もあります。
呂岱字定公,廣陵海陵人也,為郡縣吏,避亂南渡。
呂岱の字は定公といい広陵郡海陵県の人である。郡や県の役人となるが、乱を避けて南に渡る。

広陵郡海陵県は徐州の長江北岸にあり、広陵県の東に当たる。
江南に渡った詳しい時期は不明。

孫權統事,岱詣幕府,出守吳丞。
孫権が勢力を統べる事となり呂岱は幕府に参じ、地方に出て呉県丞の役目を与えられた。

孫權統事岱詣,幕府出守吳丞』 こうした方が読みとしては正しいんじゃないだろうか?であれば訳は、「勢力を統べる事となった孫権のもとに参じるようになり、幕府を出て呉県丞の役目を与えられた」となる。

守呉丞』とあるように、呉県丞の代行者になった。他に正式任命された人物がいたのだと思われる。


 權親斷諸縣倉庫及囚繫,長丞皆見,岱處法應問,甚稱權意,召署錄事,出補餘姚長,召募精健,得千餘人。
孫権は諸県の倉庫および囚人や県長・丞をみずから見分し裁断を下した。(呉県丞の)呂岱の質疑応答に孫権は感銘を受け、(幕府に)召し返して署録事とした。ふたたび呂岱は地方に出て餘姚県の長となると募集をかけ、健康でたくましい者を千人余り得た。

孫権が諸県の行政を見分したとあるけれど、名目上ではあるけれど孫権は会稽太守であり当時の呂岱は呉郡の呉県丞である。呉郡太守は朱治であるので、朱治の職分を犯しているように見える。ただ、呉郡以外の丹楊・会稽など支配地域全郡の諸県を見分したのであれば勢力の棟梁としての行いなので、朱治の職分を犯していないと言えるかもしれない。

署録事という役がどのような職掌なのかは不明。晋の時代から幕府の属官として録事の名が登場する。憶測でしかないが、役所の作業文書などのチェックを担当したのではないかと思う。

後日、調べよう。


〔裁断〕 
物事の良し悪し、道理に合うかあかないかなどをはっきり決める事。
旺文社 標準国語辞典より

會稽東冶五縣賊呂合、秦狼等為亂,權以岱為督軍校尉,與將軍蔣欽等將兵討之,遂禽合、狼,五縣平定,拜昭信中郎將。
会稽郡の東冶(地方)にある五つの県にて賊の呂合や秦狼らが反乱を起こした。孫権は呂岱を督軍校尉に任じて軍を率いさせた。蒋欽らとともに賊を攻撃して呂合と秦狼を捕らえ五県を平定し昭信中郎将の官を拝命した。

漢書 厳助伝にある。
蘇林はいう「山の名である。今は東冶という名であり会稽に属する」

ちくま訳で「会稽・東冶郡」などとしており、さすがにそれはないだろうと思う。大方の見方は東冶県と読もうとするだろうが、おそらく当時の地方名だろうと思う。そうでないと東冶五県の意味が通らない。


吳書曰:建安十六年,岱督郎將尹異等,以兵二千人西誘漢中賊帥張魯到漢興寋城,魯嫌疑斷道,事計不立,權遂召岱還。
呉書曰く、建安十六年に呂岱は郎将の尹異ら二千の兵をもって漢中の賊総帥である張魯を誘い出すために西へ向かうが(呂岱が)漢興県寋城まで到る頃に張魯は危険を感じ道を閉ざした。計画続行が難しくなり、孫権は帰還を命じ呂岱は軍を還した。

集解の注には「漢興郡見魏志張既傅注引三輔決録注。寋、音蹇、見爾雅」とあり、漢興を漢興郡と認識しているようである。

漢興県
漢興という地名は郡だけでなく県にも同名の地名が複数存在する。賀斉伝に漢興という地名が登場し、集解の注で漢興県は呉の治世の内に呉興に改称されたとあり、晋書や宋書にも同様の記述がある。

ちくまの文庫6巻末にある地図によると呉興県は東冶の東側にあり、前述の記述から呂岱は会稽郡東冶方面に駐屯していたと思われる。

以上のように推測ではあるが、呂岱は東冶から西に向かい出発し、同地方の漢興県(呉興県)まで来たところで情勢が変化し帰還命令が来て帰還となったとみる。

漢興は漢興郡を指しているのであろうという一般的な認識は、漢中の張魯を誘うのであるから漢興とは漢中近くの漢興郡であろうという思い込みがそうさせているのだろう。


呉範伝に蜀から帰還するときに白帝で劉備の軍と遭遇したとある。その記述は、以前は上記の張魯に関連して行動と同一だと思っていた。だがそれは違っていて、呉範伝の記述はもう一度、益州に向かっていたのだという事なのだろう。

建安二十年,督孫茂等十將從取長沙三郡。又安成、攸、永新、茶陵四縣吏共入陰山城,合眾拒岱,岱攻圍,即降,三郡克定。權留岱鎮長沙。
建安二十年に孫茂ら十人の武将を率いて長沙三郡を奪取した。また安成・攸・永新・茶陵といった四県の役人が集まって陰山城に入り呂岱に抵抗した。呂岱は攻撃し、瞬く間に城を降し三郡を平定した。孫権は呂岱をそのまま留め置き長沙に駐屯させた。


長沙三郡とは、長沙・零陵・桂陽の事。呂蒙伝には記載がなかったけれど、呂蒙とは違う別動隊として動いていたのが確認できた。

【安成・攸・永新・茶陵】
安成・攸・茶陵は長沙郡の県。後漢書郡国志に記載あり。
永新は桂陽郡の県。
晋書地理志に記載あり。永新県は安成郡にあり、恵帝が桂陽郡を分割して武昌郡と安成郡を設置したとある。


安成長吳碭及中郎將袁龍等首尾關羽,復為反亂。碭據攸縣,龍在醴陵。權遣橫江將軍魯肅攻攸,碭得突走。岱攻醴陵,遂禽斬龍,遷廬陵太守。
安成県の県長の呉碭(ごとう)や中郎将の袁龍らは関羽と通じていて再び反乱した。呉碭は攸県に拠り、袁龍は醴陵県に居た。孫権が横江将軍の魯粛を派遣して攸県を攻めさせたが呉碭は突破し逃走した。呂岱は醴陵県を攻め袁龍を捕らえて斬り、廬陵太守に任命された。
延康元年,代步騭為交州刺史。到州,高涼賊帥錢博乞降,岱因承制,以博為高涼西部都尉。又鬱林夷賊攻圍郡縣,岱討破之。是時桂陽湞陽賊王金合眾於南海界上,首亂為害,權又詔岱討之,生縛金,傳送詣都,斬首獲生凡萬餘人。遷安南將軍,假節,封都鄉侯。
延康元年,步騭に変わって交州刺史となる。州に到着すると高涼の不服住民錢博が降伏してきた。呂岱は承制により錢博を高涼西部都尉に任じた。また鬱林に住む異民族が郡縣を攻め囲んでいたのを呂岱が打ち破った。この時期、南海郡の境界より上の桂陽と湞陽に住む不服住民が王金を首魁として人を集めて近隣を害していた。孫権は詔を出して呂岱に討伐させ、王金を捕縛して都に護送し斬首したり捕縛した人数は万を数えた。安南将軍に昇進し假節され、都鄉侯に封じられた。

【承制】
君主の許可を得ることなく勅任官に任命する事。
詳しくは下記サイトと論文を参照
雲子春秋-承制
東晋末期における武陵王遵の承制

高涼
集解にある注の記述では、漢代には合浦郡に高涼県があり、呉が建安23か25年に高涼郡を置いたという説が複数記述されている。結論として、正確な設置年はわからないというオチだった。
郡治は恩平県。


桂陽と湞陽
両方とも桂陽郡の県。漢書地理志にある。


交阯太守士燮卒,權以燮子徽為安遠將軍,領九真太守,以校尉陳時代燮。岱表分海南三郡為交州,以將軍戴良為刺史,海東四郡為廣州,岱自為刺史。
交趾太守の士燮が亡くなったので、孫権は士燮の息子である士徽を安遠将軍としたうえで九真太守に任じ、校尉の陳時を士燮の代わり(交趾太守)とした。呂岱は上表し海南三郡を交州として分割し将軍の戴良を刺史にして、海東四郡を広州として自ら刺史となった。

士燮が亡くなったのは黄武五年【呉志 士燮伝】

遣良與時南入,而徽不承命,舉兵戍海口以拒良等。岱於是上疏請討徽罪,督兵三千人晨夜浮海。或謂岱曰:「徽藉累世之恩,為一州所附,未易輕也。」岱曰:「今徽雖懷逆計,未虞吾之卒至,若我潛軍輕舉,掩其無備,破之必也。稽留不速,使得生心,嬰城固守,七郡百蠻,雲合響應,雖有智者,誰能圖之?」遂行,過合浦,與良俱進。徽聞岱至,果大震怖,不知所出,即率兄弟六人肉袒迎岱。岱皆斬送其首。
派遣された戴良と陳時が海南部に入ろうとすると,士徽は命令を受け入れず挙兵し、海口を守って戴良らを拒んだ。呂岱は士徽を罪により討伐する上疏をして,三千の兵を率い一日かけて海上を進んだ。<中略>合浦を過ぎると戴良と合流して進んだ。士徽は呂岱が来たと聞くと恐怖してどうしてよいかわからなくなり、すぐさま兄弟六人を連れて肉袒して(上半身裸となって)呂岱を迎えた。呂岱は全員斬首して首を送った。

肉袒
礼記などに左袒する右袒するという言葉があり、着物をはだけさせ左右どちらかの肩出すという意味に使われる。そのため、両肩が出るように着物を脱いだのだろうと解釈した。

徽大將甘醴、桓治等率吏民攻岱,岱奮擊大破之,進封番禺侯。於是除廣州,復為交州如故。岱既定交州,復進討九真,斬獲以萬數。又遣從事南宣國化,暨徼外扶南、林邑、堂明諸王,各遣使奉貢。權嘉其功,進拜鎮南將軍。
士徽配下の部将であった甘醴と桓治らは役人と民衆を率いて呂岱を攻撃した。呂岱は奮い立ち反撃して大いに打ち破り、爵位が進んで番禺侯に封じられた。この出来事によって広州を廃止し、交州に戻して元の通りとなった。呂岱は交州を平定すると、また九真郡に進軍して討伐を行い、萬數を捕らえて斬った。<中略>孫権に功績を称えられ,位を進められて鎮南將軍を拝命した。

黃龍三年,以南土清定,召岱還屯長沙漚口。
黄龍三年、南の地を平定しおえた呂岱を召し返して長沙の漚口に駐屯させた。

そのまま交州に駐屯させずに地盤を作らせないのは、劉備が荊州を我が物としてしまった行動を意識してるのだろうか。

王隱交廣記曰:吳後復置廣州,以南陽滕脩為刺史。或語脩蝦鬚長一丈,脩不信,其人後故至東海,取蝦鬚長四丈四尺,封以示脩,脩乃服之。
會武陵蠻夷蠢動,岱與太常潘濬共討定之。嘉禾三年,權令岱領潘璋士眾,屯陸口,後徙蒲圻。
四年,廬陵賊李桓、路合、會稽東冶賊隨春、南海賊羅厲等一時並起。權復詔岱督劉纂、唐咨等分部討擊,春即時首降,岱拜春偏將軍,使領其眾,遂為列將,桓、厲等皆見斬獲,傳首詣都。
權詔岱曰:「厲負險作亂,自致梟首;桓凶狡反覆,已降復叛。前後討伐,歷年不禽,非君規略,誰能梟之?忠武之節,於是益著。元惡既除,大小震懾,其餘細類,掃地族矣。自今已去,國家永無南顧之虞,三郡晏然,無怵惕之驚,又得惡民以供賦役,重用歎息。賞不踰月,國之常典,制度所宜,君其裁之。」
潘濬卒,岱代濬領荊州文書,與陸遜並在武昌,故督蒲圻。頃之,廖式作亂,攻圍城邑,零陵、蒼梧、鬱林諸郡騷擾,岱自表輒行,星夜兼路。
權遣使追拜岱交州牧,及遣諸將唐咨等駱驛相繼,攻討一年破之,斬式及遣諸所偽署臨賀太守費楊等,幷其支黨,郡縣悉平,復還武昌。時年已八十,然體素精勤,躬親王事。
奮威將軍張承與岱書曰:「昔旦奭翼周,二南作歌,今則足下與陸子也。忠勤相先,勞謙相讓,功以權成,化與道合,君子歎其德,小人悅其美。加以文書鞅掌,賓客終日,罷不舍事,勞不言倦,又知上馬輒自超乘,不由跨躡,如此足下過廉頗也,何其事事快也。周易有之,禮言恭,德言盛,足下何有盡此美耶!」
及陸遜卒,諸葛恪代遜,權乃分武昌為兩部,岱督右部,自武昌上至蒲圻。遷上大將軍,拜子凱副軍校尉,監兵蒲圻。孫亮即位,拜大司馬。
岱清身奉公,所在可述。初在交州,歷年不餉家,妻子飢乏。權聞之歎息,以讓羣臣曰:「呂岱出身萬里,為國勤事,家門內困,而孤不早知。股肱耳目,其責安在?」於是加賜錢米布絹,歲有常限。
始,岱親近吳郡徐原,慷慨有才志,岱知其可成,賜巾褠,與共言論,後遂薦拔,官至侍御史。原性忠壯,好直言,岱時有得失,原輒諫諍,又公論之,人或以告岱,岱歎曰:「是我所以貴德淵者也。」及原死,岱哭之甚哀,曰:「德淵,呂岱之益友,今不幸,岱復於何聞過?」談者美之。
太平元年,年九十六卒,子凱嗣。遺令殯以素棺,疏巾布褠,葬送之制,務從約儉,凱皆奉行之。
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