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◆呉史論衡 『呉の大将軍 諸葛瑾』 
ちくま学芸文庫の三国志を参考に三国志集解と建康實錄を確認しながら諸葛瑾伝を考察。翻訳が主目的ではないので省略している箇所もあります。
諸葛瑾字子瑜,琅邪陽都人也。
諸葛瑾は字を子瑜といい、琅邪郡陽都の人。

諸葛亮伝は云う。
前漢の司隷校尉であった諸葛豐の子孫で父は諸葛珪といい泰山郡の丞であった。諸葛珪は諸葛亮が幼いころに亡くなり、諸葛玄は袁術の任命で豫章に赴任することとなり諸葛亮と諸葛均を伴った。

何故、諸葛瑾は連れていかなかったのだろうか?
諸葛玄は袁術の任命で豫章へと向かい、後に劉表の許へ行ったとある。もしかすると諸葛瑾は袁術の許で官吏として働いていたか、周瑜のような状況だったのかもしれない。

吳書曰:其先葛氏,本琅邪諸縣人,後徙陽都。陽都先有姓葛者,時人謂之諸葛,因以為氏。瑾少游京師,治毛詩、尚書、左氏春秋。遭母憂,居喪至孝,事繼母恭謹,甚得人子之道。 
 
<簡略>
呉書曰く、祖先は葛氏といい琅邪郡諸県の人だったが後に陽都県に移り住む。陽都県には別の葛氏がおり、後から移り住んだ方を諸葛と呼ぶようになった。諸葛瑾は若いころに都で遊学し学問を修めた。母が死ぬと喪に服し、継母にもよく仕えて人の子の道を尽くした。

当時は官学とされていない左氏春秋を習ったとあることから、太学ではなく私塾で学んだように思う。師父が誰なのか気になるところである。

 風俗通曰:葛嬰為陳涉將軍,有功而誅,孝文帝追錄,封其孫諸縣侯,因并氏焉。
此與吳書所說不同。
  <簡略>
風俗通曰く、「陳渉に誅殺された葛嬰の功績を思い(前漢)文帝は、その孫を諸県侯に封じた。そこで、諸と葛の字を合わせた。」
(裴松之の感想)これは呉書の説と同じではない。

諸葛豊が葛嬰の子孫なのであれば、漢書に列伝される人物の祖先として記載されそうなもの。それが無いということは、呉書の説が有力ではないのか?

漢末避亂江東。
漢代末の騒乱を避けて江東に渡る。

三国志集解は云う。
董卓の乱を避けて曹嵩が琅邪に避難したが陶謙の害に遭遇し、興平元年に曹操の報復を受けた。

集解作者の盧弼は、諸葛瑾が避けた騒乱を曹操の報復によるものとしたいようである。

值孫策卒,孫權姊壻曲阿弘咨見而異之,薦之於權,與魯肅等並見賓待,後為權長史,轉中司馬。
すぐに孫策がなくなり、曲阿にて孫権の姉婿である弘咨に見い出され孫権に推挙された。魯粛らと並んで賓客として遇され、後に孫権の長史となり中司馬となった。

三国志集解では騒乱を曹操の徐州進攻に結び付けようとしているが、江東に渡ってすぐに孫策がなくなるということは諸葛瑾が遭遇した騒乱は興平元年のものではない。時期としては袁術勢力崩壊前後に江東に渡る魯粛と同時期ではないかと思う。
【三国志集解】胡三省は云う  諸葛瑾が中司馬となったのは孫権が行車騎将軍の時であろう。

建安二十年,權遣瑾使蜀通好劉備,與其弟亮俱公會相見,退無私面。
建安二十年、孫権の使者として好(よしみ)を結ぶために劉備の許へ遣わされた。その時、弟諸葛亮と公の場で会うことはあったが、私的に面会はしなかった。

孫権伝は云う。
劉備が益州を得ると荊州を返還するように諸葛瑾を使者として送った。劉備はそれを拒否し公安まで軍を進める。その時、曹操が漢中に入り劉備は益州を失うことを恐れて和睦を求めてきた。孫権はそれに応じる旨を報せるために諸葛瑾を使者として良好な関係で荊州を分割することとした。

この時の事を言ってるのだと思う。

與權談說諫喻,未嘗切愕,微見風彩,粗陳指歸,如有未合,則捨而及他,徐復託事造端,以物類相求,於是權意往往而釋。
孫権と議論をしたり諫め諭す場合、声を張り上げるようなことはなく微妙に態度で示して大まかなあらましを話すかであり、同意が得られない場合は議題に即した話はやめて例え話によって同意を求めた。これによって孫権も(諸葛瑾の)意向を往往にして理解した。

諸葛瑾好きには知られたエピソードだよね。多分この前後合わせたエピソードで諸葛瑾が好きになったという人は多いんじゃないかな。 
【未嘗切愕】の切愕は、ググって調べてみると驚くといか言った意味ばかりだったんだけれど多分顎が外れるような「口を大きく開ける」ということだろうと思った。だから、大きく口を開けるような大声を出さなかったという意味なんだろうと判断しました。
2016/06/19

郡太守朱治,權舉將也,
呉郡太守の朱治は孫権を孝廉に推挙した人物であった。

朱治伝にある。孫権が15歳の時に孝廉に推挙した。

權曾有以望之,而素加敬,難自詰讓,忿忿不解。瑾揣知其故,而不敢顯陳,乃乞以意私自問,遂於權前為書,泛論物理,因以己心遙往忖度之。畢,以呈權,權喜,笑曰:「孤意解矣。顏氏之德,使人加親,豈謂此邪?」
<略>諸葛瑾、孫権の朱治へのわだかまりを解く

三国志集解にある。「望の音の意味は怨である」 
趙一清は云う。「孫権が朱治に抱いたわだかまりは、暨豔に由来するものである」

權又怪校尉殷模,罪至不測。羣下多為之言,權怒益甚,與相反覆,惟瑾默然,權曰:「子瑜何獨不言?」瑾避席曰:「瑾與殷模等遭本州傾覆,生類殄盡。棄墳墓,攜老弱,披草萊,歸聖化,在流隸之中,蒙生成之福,不能躬相督厲,陳答萬一,至令模孤負恩惠,自陷罪戾。臣謝過不暇,誠不敢有言。」權聞之愴然,乃曰:「特為君赦之。」

<略>諸葛瑾が校尉の職にある殷模の助命を乞う。

諸葛瑾が本州と言ってるので、殷模は諸葛瑾と同州の人か?


後從討關羽,封宣城侯,以綏南將軍代呂蒙領南郡太守,住公安。
関羽討伐の後、宣城侯に封じられ、綏南将軍となる。呂蒙の代わりに南郡太守となり公安に居住した。

孫権伝にある。黄初二年(221)、鄂を都として公安から移る。
 関羽討伐後に孫権が公安に留まって理由は、呂蒙の治療と益州進攻の意思があった為。その公安を出て東の鄂に移ったという事は益州への進攻を断念したという事。益州の進攻を断念せざるを得ない理由といえば呂蒙が亡くなること以外には考えられない。
 つまり呂蒙は黄初二年に死去したものと考えられるので、呂蒙の死亡を以って空職となった南郡太守を諸葛瑾が引き継いだものと考える。

劉備東伐吳,吳王求和,瑾與備牋曰:「奄聞旗鼓來至白帝,或恐議臣以吳王侵取此州,危害關羽,怨深禍大,不宜答和,此用心於小,未留意於大者也。試為陛下論其輕重,及其大小。陛下若抑威損忿,蹔省瑾言者,計可立決,不復咨之於羣后也。陛下以關羽之親何如先帝?荊州大小孰與海內?俱應仇疾,誰當先後?若審此數,易於反掌。」
劉備は東の呉征伐に出る。呉王孫権は和睦を求めた。諸葛瑾は劉備に手紙を書く。
<略>手紙の内容は長いので省略。

ちくまの訳では先帝を孫策としていたが、まだ孫権は帝位に就いていない。しかも孫策の諡は長沙桓王である。おそらくは先帝というのは献帝の事。
 手紙の内容は大局的な意見であるが、あまりにも私情を排除した正論。これを受け入れられる様な人は古代周王朝の文王ほどの器量が必要でしょう。ここまで君主としての器量を試すような正論を諸葛瑾がぶつけるようには思えない。本当に諸葛瑾が書いた手紙なのか疑問を呈したい。
2016/07/09

臣松之云:以為劉后以庸蜀為關河,荊楚為維翰,關羽揚兵沔、漢,志陵上國,雖匡主定霸,功未可必,要為威聲遠震,有其經略。孫權潛包禍心,助魏除害,是為翦宗子勤王之師,行曹公移都之計,拯漢之規,於茲而止。義旗所指,宜其在孫氏矣。瑾以大義責備,答之何患無辭;且備、羽相與,有若四體,股肱橫虧,憤痛已深,豈此奢闊之書所能迴駐哉!載之於篇,實為辭章之費。
<略>裴松之による諸葛瑾の手紙への批判

感情的にごもっともとしか言いようがない。

時或言瑾別遣親人與備相聞,權曰:「孤與子瑜有死生不易之誓,子瑜之不負孤,猶孤之不負子瑜也。」
ある時、諸葛瑾が親しい人を別に劉備へ遣わしているという進言があった。それに対し孫権は「わしと子瑜とは死ぬまで変わらない誓いをしている。子瑜がわしを不利にする事はないし、わしも子瑜が不利になるような事はしない。」

諸葛瑾が公式な使者以外の人を劉備へ送ってたかどうかは否定してないよね?

江表傳曰:瑾之在南郡,人有密讒瑾者。此語頗流聞於外,陸遜表保明瑾無此,宜以散其意。權報曰:「子瑜與孤從事積年,恩如骨肉,深相明究,其為人非道不行,非義不言。玄德昔遣孔明至吳,孤嘗語子瑜曰:『卿與孔明同產,且弟隨兄,於義為順,何以不留孔明?孔明若留從卿者,孤當以書解玄德,意自隨人耳。』子瑜答孤言:『弟亮以失身於人,委質定分,義無二心。弟之不留,猶瑾之不往也。』其言足貫神明。今豈當有此乎?孤前得妄語文疏,即封示子瑜,并手筆與子瑜,即得其報,論天下君臣大節,一定之分。孤與子瑜,可謂神交,非外言所閒也。知卿意至,輒封來表,以示子瑜,使知卿意。」
<略>【江表伝】

陸遜が孫権に諸葛瑾への讒言を信じないように手紙を書いて送ったら「お前が心配しなくても諸葛瑾と俺は篤い信頼で結ばれてるんだよ。わかってないお前の手紙を諸葛瑾に送って晒とくな」 と返事が返ってきたという話。

黃武元年,遷左將軍,督公安,假節,封宛陵侯。
黄武元年、左将軍に遷り督公安となり節を仮され、宛陵侯に封じられた。

この時期に假節されていたのは朱然と諸葛瑾のみ。

孫権伝より
秋九月,魏乃命曹休、張遼、臧霸出洞口,曹仁出濡須,曹真、夏侯尚、張郃、徐晃圍南郡。權遣呂範等督五軍,以舟軍拒休等、諸葛瑾、潘璋、楊粲救南郡,朱桓以濡須督拒仁。
<略>黄武元年九月 曹真 夏侯尚 張郃 徐晃が南郡を攻撃する。諸葛瑾 潘璋 楊粲が南郡救援に向かう。

孫権伝の記述。諸葛瑾伝には南郡救援に参加した事には触れられていない。

吳錄曰:曹真、夏侯尚等圍朱然於江陵,又分據中州,瑾以大兵為之救援。瑾性弘緩,推道理,任計畫,無應卒倚伏之術,兵久不解,權以此望之。及春水生,潘璋等作水城於上流,瑾進攻浮橋,真等退走。雖無大勳,亦以全師保境為功。
<略>曹真 夏侯尚が朱然を江陵で包囲。諸葛瑾はこれを救援に向かうが、早急な方法や奇計などを用いず万全の計画を持って事を始めるのでなかなか戦端を開かなかった。これに孫権はいらだちを覚えていた。やがて潘璋が上流で水城を作り、諸葛瑾が浮橋を攻撃したので曹真らは撤退した。大きな働きはなかったものの、兵を損なわず領土を守った功績があるとされた。

臨機応変の策に長じていなかったというのは、諸葛亮とかぶる評価。

虞翻以狂直流徙,惟瑾屢為之說。翻與所親書曰:「諸葛敦仁,則天活物,比蒙清論,有以保分。惡積罪深,見忌殷重,雖有祁老之救,德無羊舌,解釋難冀也。」
<超かるい感じで意訳>
虞翻が孫権怒らせて流刑になると、諸葛瑾が弁護した。そのことについて虞翻が手紙に書いた。「諸葛瑾マジ天使」

うん。諸葛瑾マジ天使。

瑾為人有容貌思度,于時服其弘雅。權亦重之,大事咨訪。
<軽い感じで意訳>
諸葛瑾の容貌は優しく人を安心させ、たたずまいはとても落ち着いたものだった。孫権は尊重して、重大な決定時には意見を訪ねた。

集解の注に云う。
諸葛恪伝に、恪の父は面長で驢馬に似ていたとある。

又別咨瑾曰:「近得伯言表,以為曹丕已死,毒亂之民,當望旌瓦解,而更靜然。聞皆選用忠良,寬刑罰,布恩惠,薄賦省役,以悅民心,其患更深於操時。孤以為不然。操之所行,其惟殺伐小為過差,及離閒人骨肉,以為酷耳。至於御將,自古少有。丕之於操,萬不及也。今叡之不如丕,猶丕不如操也。其所以務崇小惠,必以其父新死,自度衰微,恐困苦之民一朝崩沮,故彊屈曲以求民心,欲以自安住耳,寧是興隆之漸邪!聞任陳長文、曹子丹輩,或文人諸生,或宗室戚臣,寧能御雄才虎將以制天下乎?夫威柄不專,則其事乖錯,如昔張耳、陳餘,非不敦睦,至於秉勢,自還相賊,乃事理使然也。又長文之徒,昔所以能守善者,以操笮其頭,畏操威嚴,故竭心盡意,不敢為非耳。逮丕繼業,年已長大,承操之後,以恩情加之,用能感義。今叡幼弱,隨人東西,此曹等輩,必當因此弄巧行態,阿黨比周,各助所附。如此之日,姦讒並起,更相陷懟,轉成嫌貳。一爾已往,羣下爭利,主幼不御,其為敗也焉得久乎?所以知其然者,自古至今,安有四五人把持刑柄,而不離刺轉相蹄齧者也!彊當陵弱,弱當求援,此亂亡之道也子瑜,卿但側耳聽之,伯言常長於計校,恐此一事小短也。」
<訳省略>




臣松之以為魏明帝一時明主,政自己出,孫權此論,竟為無徵,而史載之者,將以主幼國疑,威柄不一,亂亡之形,有如權言,宜其存錄以為鑒戒。或當以雖失之於明帝,而事著於齊王,齊王之世,可不謂驗乎!不敢顯斥,抑足表之微辭。
<訳省略>




權稱尊號,拜大將軍、左都護,領豫州牧。
孫権が帝位に就くと大将軍・左都護となり豫州牧の官職を授かった。

歩騭伝にある周昭の論では、諸葛瑾を諸葛使君と呼ぶ。使君というのは刺史や君主からの勅使を表す言葉である。州牧ではあるが大将軍の諸葛瑾を刺史としての使君と呼ぶのはおかしく、勅使の使君と考えるのが妥当だと判断する。

及呂壹誅,權又有詔切磋瑾等,語在權傳。瑾輒因事以答,辭順理正。瑾子恪,名盛當世,權深器異之;然瑾常嫌之,謂非保家之子,每以憂戚。
<訳省略>


吳書曰:初,瑾為大將軍,而弟亮為蜀丞相,二子恪、融皆典戎馬,督領將帥,族弟誕又顯名於魏,一門三方為冠蓋,天下榮之。謹才略雖不及弟,而德行尤純。妻死不改娶,有所愛妾,生子不舉,其篤慎皆如此。
<訳省略>


赤烏四年,年六十八卒,遺命令素棺斂以時服,事從省約。
赤烏四年(241) 六十八歳で亡くなる。 亡くなるに際して、着ている服のまま素棺に納め葬儀は略式にするにとの言葉を残した。

孫権伝に赤烏四年の閏六月に亡くなったとある。

表紙
 
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