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◆左右論 一頁 中国史における左右の尊卑についての推論です。
 
表紙
一頁
二頁
三頁
参考文献
 
◆『儒教では基本、左を尊んだ。』
◆左右の尊卑は、時代の情勢で入れ替わって居ない。
◆春秋戦国時代は、地域によって左右の尊卑が違った。
◆三国時代、左右に分かれた行政職は左を上位とした。
◆三国時代、左右に分かれた軍事職は右を上位とした。


 中国では「吉事尚左、凶事右」と左を尊ぶ老子や道教の影響で主に左が尊ばれたが、時代によって左右の優劣が変わり、時代順に周は左を尊び、戦国・秦・漢は右を、六朝・隋・唐・宋は左を、元は右を、明・清は左を尊んだ。これについて、右を尊んだ時代は荒れ乱れた世が多く、「君子、居れば則ち左を貴び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ」という老子の言葉の通りである、という見方がある。(Wikiより引用) 
 時代の情勢で左右の尊卑が変化し左右の尊卑が統一されていた。これが一般的な見解のようです。ですが私はこれに異議を唱えたいと思います。その為に、いくつかの事例を挙げます。
①【老子道經 三十一章】
「君子居則貴左,用兵則貴右」
・君子の位置は左をもって貴び、兵を用いるときは右を貴ぶ。
「吉事尚左,凶事尚右。偏將軍居左,上將軍居右」
・吉事は左で、凶事は右。副将の位置は左に、主将の位置は右となる。
 Wikiでも引用されている老子の言葉は一番基本となる言葉です。
②【春秋左傳/桓公/傳八年】
「楚人上左,君必左,無與王遇。且攻其右。右無良焉,必敗。」
・楚国の人は左を尊び、楚の君主は必ず左に居るので王はこれに会ってはいけません。右翼を攻撃しましょう。右翼に精鋭は配置されていないので必ず打ち破ることができるでしょう。
 あえて楚の国は左を尊んでいると国地域を特定して言っている。国や地域によって左右の尊卑が違ったことを現していると思います。

③【礼記/檀弓下】
「既封,左袒,右還其封且號者三」
・左袒 「左袒は吉礼、右袒は凶礼」(新訳漢文大系の語訳より)
 孔子は礼にかなった作法だと言う。後の注釈では老荘の意味が含まれているとも言われる。
 ④【礼記/少儀十七】
「其禮,大牢則以牛左肩、臂、臑折九箇,少牢則以羊左肩七箇,犆豕則以豕左肩五箇。」
・儀式の大牢(生贄)では左肩など左側を使う。
 この場合の儀式は契約や祝い事等です。
 ⑤【礼記/曲禮上】
客を迎える家の主人は右側を歩き、客は左側を歩く。
堂に入ると家の主人は東側へ、客は西側へ行く。
客の身分が低い時、客も東側へ行くが主人は固辞して客に西を勧める。
 基本、廟や堂は南向きです。堂に向かえば北向きになるので、左側を歩けばそのまま堂の西側となります。客を尊んで方角などを決めている。尊んでいる客に左側を歩かせるということは、左を尊んでいることにつながると思う。
⑥【史記卷五十六 陳丞相世家第二十六】
「願以右丞相讓勃。」於是孝文帝乃以絳侯勃為右丞相,位次第一
;平徙為左丞相,位次第二。」
右丞相が第一の位で、左丞相が第二の位。
 ⑦【漢書卷八十二 王商】
「元帝時,至右將軍、光祿大夫。 
元帝崩,成帝即位,甚敬重商,徙為左將軍。」
 右将軍から左将軍にすすむ。
⑧【漢書第三十九 辛慶忌】
「其後拜為右將軍諸吏散騎給事中,歲餘徙為左將軍。」
 右将軍から左将軍へすすむ。
 <<総論1>>
②にあるように、地域を特定して左を尊んでいると言っていたりするので、同時代の別の地域では右を尊んでいるところがあるという事。つまりはWikiの言うような時代情勢で左右の尊卑が変化したというのは間違っている。
 思うに基本、儒教では左を尊んでいた。①を基本として、③で儒教の祖である孔子が祝い事は左を尊ぶと言っている。戦乱の世にだって婚礼などの祝い事がある。左右の尊卑が、その時代すべての事柄で右を尊んでいたりなど統一されていたとは言えない。
 例えて言うなら現代の日本の交通ルールがある。人は右側通行で車は左側通行というように全て右側や左側という様には統一されていない。それと一緒である。

 ⑥では右丞相が第一とされている。漢代の爵位も右とつく爵位が上位になっている。だからといって漢代は右が尊ばれていたと言ってしまうのは早計です。何故なら劉邦の左腿に72個のホクロがある事を吉事とし、呂氏誅殺時に味方となるものに左袒せよと命じています。右を尊んでいるのであれば、左を吉事としているのは何故でしょう?それに、⑦と⑧では右将軍から左将軍に昇進しています。右を尊んでいるのであればありえない事です。

 ⑥では何故そのようになっているかの理由は②で地域によって尊卑が違うように、秦では右が尊ばれていたのだと思います。秦の官爵制度では右が上位となり漢はその秦の制度をそのまま継承してしまったので⑥の様になってしまったのだと推測します。

 その後、武帝の時代から儒教の国教化が始まり多様な将軍号が作られました。おそらく、武帝の頃から左を吉事とする儒教のとおりに官爵制度が直されていったのだと思う。

 
 
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