三国志を中心にした中国史を調べて適当に思いついた事を綴ったサイト
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◆【魏歴】斉王期嘉平年間 魏歴に戻る 斉王期正始年間に戻る
嘉平2年(250)
正月
2月
3月
4月
5月
郭淮 征西将軍 → 車騎将軍
6月
7月
8月
9月
10月
孫資 驃騎将軍 に任命
11月
孫礼 司空 死去
12月
乙未(18日) 王昶 征南将軍 呉を襲撃する
ちくま訳では乙未を18日としているがが、違うような気がする。
甲辰(28日) 曹霖 東海王 死去
この年
嘉平3年(251)
正月
王基 荊州刺史
州泰 新城太守
王基と州泰が呉を襲撃し、数千戸の民が魏に降伏する。
2月
南郡に夷陵県を設置し、先月降伏してきた民を居住させる。
3月
司馬孚 尚書令 → 司空
4月
甲申(9日) 王昶 征南将軍 → 征南大将軍
壬辰(17日) 大赦
丙午(2日) 太尉の王淩が楚王曹彪を立る帝の廃立を謀り、太傅の司馬懿が討伐に向かう。
5月
甲寅(10日) 王淩 太尉 自殺する
6月
曹彪 楚王 死去 刑死
7月
壬戌(19日) 甄皇后 死去
辛未(28日) 司馬孚 司空 → 太尉
8月
戊寅(5日) 司馬懿 死去
司馬師 衛将軍 → 撫軍大将軍・録尚書事
乙未(22日) 甄皇后 大清陵に埋葬
庚子(27日) 孫資 驃騎将軍 死去
9月
10月
11月
太祖廟の前庭で祀られる功臣の中で司馬懿を最上位とする。
12月
鄭沖 光禄勲 → 司空
この年
嘉平4年(252)
正月
癸卯(2日) 司馬師 撫軍大将軍 → 大将軍
2月
張氏 皇后に立てられる
3月
4月
5月
魚が二匹、武器庫の上に出現。
6月
7月
8月
9月
10月
11月
東興の戦い 呉征伐が命じられる。
王昶 征南大将軍 東興の戦いに参加
胡遵 征東将軍 東興の戦いに参加
毋丘倹 鎮南将軍 東興の戦いに参加
司馬昭 監軍 東興攻撃の諸軍を統率 【斉王紀】「漢晋春秋」
12月
呉の諸葛恪の防戦により、魏軍は東興より撤退する
この年
陳泰 雍州刺史 蛮族討伐の願いを上奏する 【斉王紀】「漢晋春秋」
嘉平5年(253)
正月
2月
3月
4月
大赦
5月
呉の諸葛恪が合肥を包囲
司馬孚 太尉 合肥防衛の勅旨を受ける
張特 合肥新城の守将 【斉王紀】「魏略」
6月
7月
合肥より呉軍撤退
8月
郭脩 蜀の費禕を刺殺した郭脩を称揚
長楽郷公に封じ、領有1000戸 諡 威侯
郭? 郭脩の子
長楽郷公を継ぎ、奉車都尉に任じられる
9月
10月
11月
12月
この年
張特 合肥新城の守将 → 雑号将軍・列侯・安豊太守に栄転 【斉王紀】「魏略」
合肥を呉から守り抜いた功績
嘉平6年(254)
正月
2月
己丑(1日) 毋丘倹 鎮東将軍 
功績のあった兵卒の劉整・鄭像の事を朝廷に言上する  ※二人は東興の戦いで死亡している。
劉整 関中侯を追贈され、子が爵位を継ぐ。 ※ちくま訳では関内侯
鄭像
庚戌(22日) 李豊 中書令
張緝 光禄大夫 ※張皇后の父親
諸葛玄 太常
庚戌(22日) 李豊 死去  司馬師を排斥し、夏侯玄を大将軍にしようと謀った事が発覚して誅殺される。
張緝
辛亥(23日) 大赦
3月
張皇后 皇后を廃される
4月
王氏 皇后に立てられる
大赦
5月
王夔 奉車都尉 → 広明郷侯・光禄大夫・特進   ※王皇后の父親
田氏 王夔の妻 宣陽郷君に封じられる。   
6月
7月
8月
9月
司馬師 帝の廃位の議を皇太后に告げる
甲戌(19日) 郭皇太后 帝の廃位を命じる
曹芳 廃されて別の宮殿に遷る。
10月
庚寅(5日) 曹髦 皇帝即位
壬辰(7日) 侍中を持節させて各地へ派遣
癸巳(8日) 司馬師 大将軍 黄金の鉞を授け、殿上の特権を与えられる。
戊戌(13日) 鄴の井戸に黄龍が出現
甲辰(19日) 皇帝廃立の功績を調査し、格差をつけて下賜品を分配
11月
12月
この年
許允 中領軍 司馬師殺害を計画 【斉王紀】「世語及魏氏春秋」
鎮北将軍に任じられるが、李豊の計画発覚で逮捕され処刑される
註【魏書】司馬師の皇后への上奏より
司馬孚 守尚書令・太尉・長社侯
司馬師 大将軍・武陽侯
高柔 司徒・万歳亭侯
鄭沖 司空・文姚亭侯
司馬昭 行征西安東将軍・新城侯
【管理者註】晋書ではこの時期に行征西将軍となっているため、行征西将軍・安東将軍となるはずが略されたか、もしくは行征西護軍の書き損じの可能性がある。
孫邕 光禄大夫・関内侯
(?)晏 太常
「ちくま訳 註」三国志集解では「任昊」
満偉 衛尉
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