梁書巻三十二 列傳第二十六

陳慶之 陳慶之

原文は中央研究院 漢籍電子文献を基としています。

陳慶之字子雲,義興國山人也。幼而隨從高祖。
高祖性好棊,每從夜達旦不輟,等輩皆倦寐,
惟慶之不寢,聞呼即至,甚見親賞。

從高祖東下平建鄴,稍為主書,散財聚士,常思効用。
除奉朝請。



陳慶之は字を子雲といい、義興郡国山県の人である。若いころから梁の武帝蕭衍の側仕えとなっていた。
蕭衍は囲碁を好み、同好の囲碁好きと夜通し対局をするが皆途中で寝てしまっていた。
ただ陳慶之だけが眠らず呼ばれてもすぐに応えるのを見てとても喜んだ。

蕭衍の建?平定に随行し、ややあって主書となったが、財貨を投じて人を集めて役に立てたいと常に思っていた。
奉朝請に任じられる。

普通中,魏徐州刺史元法僧於彭城求入内附,
以慶之為武威將軍,與胡龍牙、成景儁率諸軍應接。
還除宣猛將軍、文德主帥,仍率軍二千,送豫章王綜入鎮徐州。



普通年間中に魏の徐州刺史・元法僧が彭城で梁に服属する際、
陳慶之を武威将軍として胡龍牙、成景儁らの諸軍を率いて対応させた。
宣猛将軍に任じられ文徳主帥として兵二千を率いて豫章王・蕭綜を警護随伴し徐州に入った。

魏遣安豐王元延明、臨淮王元彧率眾二萬來拒,屯據陟□。
延明先遣其別將丘大千築壘潯梁,觀兵近境。慶之進薄其壘,一鼓便潰。
後豫章王棄軍奔魏,眾皆潰散,諸將莫能制止,
慶之乃斬關夜退,軍士得全。



魏の安豊王・元延明と臨淮王・元彧が二万の軍勢で押し寄せるのを防ぐために陟(?)に駐屯した。
元延明の先遣隊を率いる丘大千が砦を築いて国境近くに軍がいるのが見えた。陳慶之はその砦を攻め立て、瞬く間に陥落させた。
後に豫章王・蕭綜が軍を捨てて魏に出奔したため、恐慌状態に陥り諸将はこれを抑える事が出来なかった。
陳慶之は城門を壊して夜間に撤退し、軍を損なう事が無かった。

普通七年,安西將軍元樹出征壽春,除慶之假節、總知軍事。
魏豫州刺史李憲遣其子長鈞別築兩城相拒,
慶之攻之,憲力屈遂降,慶之入據其城。
轉東宮直閤,賜爵關中侯。



普通七年 西安将軍の元樹が寿春に出征し、陳慶之は假節されて軍事を取り仕切った。
魏の豫洲刺史・李憲は子の(李)長鈞に別に城を作らせて連携して防衛した。
陳慶之はその城を攻撃すると李憲は攻撃に耐えかねて降伏し、陳慶之がその城に入った。
東宮直閤に任じられ、關中侯の爵位を賜った。

大通元年,隸領軍曹仲宗伐渦陽。
魏遣征南將軍常山王元昭等率馬步十五萬來援,前軍至駝澗,去渦陽四十里。


大通元年、領軍の曹仲宗の指揮の下で渦陽県を討伐した。
魏は征南将軍・常山王の元昭が十五万の騎兵と歩兵を率いて来援して前軍が駝澗に至り
(梁軍は)渦陽から四十里後退した。

慶之欲逆戰,韋放以賊之前鋒必是輕銳,與戰若捷,不足為功,如其不利,
沮我軍勢,兵法所謂以逸待勞,不如勿擊。

慶之曰:「魏人遠來,皆已疲倦,去我既遠,必不見疑,及其未集,須挫其氣,出其不意,必無不敗之理。且聞虜所據營,林木甚盛,必不夜出。諸君若疑惑,慶之請獨取之。」

於是與麾下二百騎奔擊,破其前軍,魏人震恐。

慶之乃還與諸將連營而進,據渦陽城,與魏軍相持。


陳慶之は逆撃を加えるべきと思っていたが、(大将の)韋放は魏軍の先鋒は身軽で戦は始まったばかりで疲れておらず戦ってもいない不利な状況。
これを阻む我が軍勢は兵法の通りに、敵の疲労が溜まるのを待つのが常道であり撃って出るべきではないとした。

陳慶之は言った。「魏軍は遠くから来援したのであって皆疲れている。後退する時に遠くからでもそれが見えて疑いようがない。敵が集まりきる前に戦意をくじくために不意を突くことこそ負けない戦い方である。聞けば敵方の陣地周辺には木が生い茂り、夜は出てこないという。諸君は疑うが、私個人の判断で行う。」

麾下の二百騎だけで攻撃してまわって魏の前軍を打ち破り、魏軍を震撼させた。

陳慶之が攻撃から帰ると梁の諸将は陣営を進めて渦陽城の魏軍と対峙した。



自春至冬,數十百戰,師老氣衰,魏之援兵復欲築壘於軍後,仲宗等恐腹背受敵,謀欲退師。
慶之杖節軍門曰:「共來至此,涉歷一歲,糜費糧仗,其數極多,諸軍並無鬭心,[一]諸軍並無鬭心 「軍」,通鑑作「君」。
皆謀退縮,豈是欲立功名,直聚為抄暴耳。吾聞置兵死地,乃可求生,須虜大合,然後與戰。審欲班師,慶之別有密敕,今日犯者,便依明詔。」

仲宗壯其計,乃從之。



春から冬になるまでの間に百数十戦の戦闘を交え梁軍の首脳陣は疲れ気力も衰え、魏の援軍が再び砦を築き完成した後に、前後から敵に攻撃されることを曹仲宗らは恐れ撤退を考えた。
陳慶之は節を杖つき陣営前で言う「共に此処に来て至り一年が経過し其の費えはきわめて多いのに諸軍は闘争心をなくし皆撤退を考えているが、功名を打ち立てたいと思うなら、皆少しばかり聞いてくれ。私は聞いたことがある兵を逃げ場のない場所に配置すれば生きる残る為に躍起になり大きな力となった時に合戦すればよいと。軍を撤退させることが正しいとする者は、私の持つ別の密勅で今この日より反逆者となると詔が示している。」

宗仲宗は勇ましいその計画に従う事とした。



魏人掎角作十三城,慶之銜枚夜出,陷其四壘,渦陽城主王緯乞降。
所餘九城,兵甲猶盛,乃陳其俘馘,鼓噪而攻之,遂大奔潰,斬獲略盡,
渦水咽流,降城中男女三萬餘口。

詔以渦陽之地置西徐州。眾軍乘勝前頓城父。

高祖嘉焉,賜慶之手詔
曰:「本非將種,又非豪家,觖望風雲,以至於此。可深思奇略,善克令終。開朱門而待賓,揚聲名於竹帛,豈非大丈夫哉!



魏軍は13の城塞を作っていたが陳慶之が夜襲で四つの砦を陥落させると、渦陽城主の王緯が降伏を願い出た。
残る九つの城塞も勢いに乗って攻め立て、ついに戦の大勢は決し魏軍を壊滅奔走させ
渦水の流れを詰まらせるほどであり、下した城中には男女三万人がいた。

詔があり、渦陽のある地域を西徐州と命名設置した。諸軍は勝った勢いで城父の前に陣営を張った。

高祖は喜ばしく思い、陳慶之に詔を賜った。
曰く「(省略)」



大通初,魏北海王元顥以本朝大亂,自拔來降,求立為魏主。
高祖納之,以慶之為假節、飈勇將軍,送元顥還北。
顥於渙水即魏帝號,授慶之使持節、鎮北將軍、護軍、前軍大都督,發自銍縣,進拔滎城,遂至睢陽。


大通年間の初め頃、魏の北海王 元顥が朝廷内の混乱により梁へ助けを求めてきた。
高祖 蕭衍は元顥の求めを受け入れ、陳慶之に假節して飈勇將軍に任じ、元顥が魏に戻るための助けとさせた。
元顥は渙水を超えると魏の帝と号し、陳慶之に使持節を授け鎮北将軍・護軍・前軍大都督とし銍県から出発し滎城を下して睢陽に至った。



魏將丘大千有眾七萬,分築九城以相拒。
慶之攻之,自旦至申,陷其三壘,大千乃降。
時魏征東將軍濟陰王元暉業率羽林庶子二萬人來救梁、宋,進屯考城,城四面縈水,守備嚴固。
慶之命浮水築壘,攻陷其城,生擒暉業,獲租車七千八百兩。
仍趨大梁,望旗歸款。
顥進慶之衞將軍、徐州刺史、武都公。[三]武都公 南史作武都郡王。
仍率眾而西。

魏の将 丘大千は七万の軍勢をもって九つの城塞を作り防衛した。
陳慶之はこれを朝から日暮れ前まで攻撃して三つの城塞を陥落させ、丘大千を降伏に追い込んだ。
魏の征東将軍で濟陰王の元暉業が羽林の庶子2万人を率いて来援し ~?~ 進駐した考城は城の四方に水が湛えられ防衛に適していた。
陳慶之は浮水(地名?)に築城し、考城を攻め落として元暉業を生け捕り7800両もの車を鹵獲した。
仍趨大梁,望旗歸款(?)
元顥は陳慶之の位を進めて衛将軍・徐州刺史・武都公とした。[三]武都公 南史作武都郡王。
さらに軍を西へと進めた。


魏左僕射楊昱、西阿王元慶、撫軍將軍元顯恭率御仗羽林宗子庶子眾凡七萬,據滎陽拒顥。兵既精強,城又險固,慶之攻未能拔。魏將元天穆大軍復將至,先遣其驃騎將軍尒朱吐沒兒領胡騎五千,騎將魯安領夏州步騎九千,援楊昱;又遣右僕射尒朱世隆、[四]又遣右僕射尒朱世隆 「尒朱世隆」各本皆作「尒朱隆」。南史作「尒朱世隆」。按:尒朱世隆北史有傳,姚思廉避唐諱,刪「世」字。今補。西荊州刺史王羆騎一萬,據虎牢。

天穆、吐沒兒前後繼至,旗鼓相望。時滎陽未拔,士眾皆恐,慶之乃解鞍秣馬,宣喻眾曰:「吾至此以來,屠城略地,實為不少;君等殺人父兄,略人子女,又為無算。天穆之眾,並是仇讎。我等纔有七千,虜眾三十餘萬,今日之事,義不圖存。吾以虜騎不可爭力平原,及未盡至前,須平其城壘,諸君無假狐疑,自貽屠膾。」一鼓悉使登城,壯士東陽宋景休、義興魚天愍踰堞而入,遂克之。



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