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◆【魏歴】文帝期 魏歴に戻る 武帝期後期へ戻る
黄初元年 (220)
11月
癸酉(1日) 劉協 山陽侯 帝位を曹丕に禅譲する。 【文帝紀】
各官職の名を改称 【文帝紀】
12月
洛陽宮を造営 【文帝紀】
戊午(17日) 曹丕、洛陽に行幸 【文帝紀】
載陵 長水校尉 【文帝紀】
曹丕を諌言し激怒され死罪を言い渡されるが減刑 【文帝紀】
この年
孔桂 府馬都尉 【明帝紀】<魏略> ※青龍元年の記事より
黄初二年 (221)
この年、もしくは前年
司馬懿 河津亭侯・丞相長史 → 河津亭侯・尚書 → 督軍・御史中丞・安国郷侯 【晋書:宣帝紀】
正月
孝廉に特別枠を設ける。 【文帝紀】
壬午(11日) 潁川郡の租税を一年間免除 【文帝紀】
許県を許昌県と改称 【文帝紀】
魏郡の東部を陽平郡 西部を広平郡に改組 【文帝紀】
「魏略」長安 譙 許昌 鄴 洛陽の五つを都とした。 【文帝紀】
孔羨 宗聖侯 【文帝紀】
3月
公孫恭 遼東太守 車騎将軍を加官 【文帝紀】
五銖銭を復活 【文帝紀】
4月
曹仁 車騎将軍 → 大将軍 【文帝紀】
5月
鄭甘が反乱 曹仁が討伐し斬った。【文帝紀】
6月
丁卯(28日) 甄夫人 死去
戊辰(29日) 日食があり太尉を免職とするよう上奏があったが却下
8月
孫権からの使者到来し、于禁が返還される。
丁巳(19日) 刑貞 太常 使者とし孫権のもとに派遣し、孫権に呉王の爵位と大将軍の官位と九錫を与える。
10月
楊彪 光禄大夫
五銖銭を廃止
11月
己卯(13日) 曹仁 大将軍 → 大司馬
12月
曹丕、東へ巡行
この年、陵雲台を築く
曹叡 斉公 に封じられる 【明帝紀】
この年の月日不明事
司馬懿 督軍・御史中丞・安国郷侯 → 侍中・尚書右僕射・安国郷侯 【晋書:宣帝紀】
この時、督軍の官が廃止された 【晋書:宣帝紀】
黄初三年 (222)
正月
曹丕、許昌宮に行幸
二月
孫権から劉備進軍を告げる上書 ※文帝紀註 魏書
西域諸国から朝貢が来迎 戊己校尉を設置
三月
曹霖 河東王 に封じられる
曹丕、襄邑に行幸
四月
曹植
曹丕、許昌宮に帰還
五月
荊州・揚州の江南八郡をもって荊州とする
荊州の江北諸郡を郢州とする
閏月
孫権が劉備を撃破
七月
冀州でイナゴ被害
杜畿 尚書 節を持ち、官倉を開かせ民を救済
八月
黄権が魏に帰順
九月
甲午(3日) 后の一族や、外戚の補任を許さない詔勅が下る
庚子(9日) 郭氏 皇后に立てられる
十月
孫権が反逆
郢州を荊州に戻す
南征伐開始
十一月
辛丑(11日) 曹丕、宛へ行幸
庚申(30日) 日食
この年、霊芝池を掘る
曹叡 平原王 に封じれらる 【明帝紀】
黄初四年 (223)
正月
宛に南巡台を築く
三月
曹丕、宛から洛陽に帰還
丁未(19日) 曹仁 大司馬 死去
疫病が流行
張郃 左将軍 ※文帝紀註 魏書
五月
六月
甲戊(17日) 曹彰 死去 任城王
甲申(27日)賈詡 賈詡 死去 太尉
伊水と洛水が氾濫
八月
丁卯(11日) 鍾繇 廷尉 → 太尉
辛未(15日) 曹丕 滎陽で狩猟を行い東へ巡行
孫権征討の論功行賞を行う。
九月
甲辰(19日) 曹丕 許昌宮に行幸
楊彪 光禄大夫 席次は三公と同格 ※文帝紀註 続漢書
黄初五年 (224)
正月
反逆罪と大逆罪以外の密告を禁止する命令を出す 【文帝紀】
3月
曹丕が許昌から洛陽へ帰還 【文帝紀】
4月
大学を立て、五経試験の法を制定 【文帝紀】
春秋穀梁博士を設置 【文帝紀】
5月
朝議についての上奏 【文帝紀】
6月
曹丕が東へ行き、許昌に行幸する 【文帝紀】
8月
曹丕が水軍の龍舟に乗り寿春に行幸 【文帝紀】
司馬懿 侍中・尚書右僕射・安国郷侯 → 向郷侯・撫軍将軍・假節・給事中・録尚書事・兵五千を領す
曹丕の呉への軍事行動に同行せず許昌に留まる  【晋書:宣帝紀】
揚州境界域にて五年以下罰則を受けた者を赦免 【文帝紀】
9月
曹丕が広陵に行幸し、青州・徐州への免赦令を下す 【文帝紀】
青州・徐州の守将を交代させる 【文帝紀】
10月
曹丕が許昌に帰還 【文帝紀】
11月
庚寅(11日) 冀州で飢饉が発生し、官倉を開き救済するよう使者を派遣する 【文帝紀】
戊申(29日) 日食 【文帝紀】
12月
巫術史の言葉を用いて行動する事を罰し禁止する詔勅が出される 【文帝紀】
この年
天淵池を掘る 【文帝紀】
黄初六年 (225)
2月
使者を派遣し許昌から東の沛郡までを循行させ困窮する民を救済させた 【文帝紀】
3月
曹丕が召陵に行幸。討虜渠が開通する 【文帝紀】
原文「三月,行幸召陵,通討虜渠。」とある。ちくま訳では討虜渠という運河の開通と訳している。曹丕が討虜渠を通ったという意味にならないのかと疑問を呈しておく。
乙巳(28日) 曹丕が許昌に帰還 【文帝紀】
梁習 并州刺史 鮮卑族の軻比能を討伐して打ち破る 【文帝紀】
辛未(閏3月24日) 曹丕が水軍を興し、東方征伐に赴く 【文帝紀】
5月
曹丕が譙に行幸 【文帝紀】
6月
利成郡で蔡方ら兵士が反乱し、太守の徐質を殺害する 【文帝紀】
徐質 死去 利成郡太守 【文帝紀】
任福 屯騎校尉 【文帝紀】
段昭 歩兵校尉 【文帝紀】
王陵 青州刺史 【文帝紀】※ちくま訳
任福・段昭を派遣し、青州刺史と共に蔡方の反乱を討伐する 【文帝紀】
七月
曹鑒 東武陽王に封じられる 【文帝紀】
8月
曹丕が水軍を率いて譙を出発し徐州へ向かう 【文帝紀】
9月
東巡台を築く 【文帝紀】
10月
曹丕が広陵古城に行幸 【文帝紀】
曹丕、水路凍結により舟を長江に運べず帰還する。
11月
曹鑒 死去 東武陽王 【文帝紀】
12月
曹丕が譙から梁に訪れ、使者を派遣して漢の太尉・橋玄を祀る祭祀を行う 【文帝紀】
黄初七年 (226)
正月
曹丕、許昌に行幸するが城の南門が崩れた為に城に入らず帰還する 【文帝紀】
壬子(10日) 曹丕、洛陽宮に帰還 【文帝紀】
3月
九華台を築く 【文帝紀】
5月
曹叡 皇太子となる 【明帝紀】
丙辰(16日) 曹丕、危篤 【文帝紀】
曹真・陳羣・曹休・司馬懿を召し寄せる 【文帝紀】
丁巳(17日) 曹丕 死去 【文帝紀】
丁巳(17日) 曹叡 皇帝即位 【明帝紀】
明帝即位後 司馬懿 向郷侯・撫軍将軍・假節・給事中・録尚書事 → 
舞陽侯
・撫軍将軍・假節・給事中・録尚書事 【晋書:宣帝紀】
6月
戊寅(9日) 曹丕 首陽陵に埋葬される 【文帝紀】
癸巳(14日) 甄夫人 文昭皇后と諡する 【明帝紀】
楊彪 死去 84歳 ※文帝紀註 続漢書 【文帝紀】
8月
孫権が江夏を攻撃
文聘 江夏太守 孫権の攻撃を固守 【明帝紀】
荀禹 治書侍御史 使者となり国境地帯を慰労し江夏に向かう 【明帝紀】
辛巳(12日) 曹冏 清河王 に封じられる 【明帝紀】
諸葛瑾・張覇が襄陽を攻撃してくる 【明帝紀】
司馬懿 撫軍大将軍 諸葛瑾・張覇を打ち破り張覇を斬る 【明帝紀】
曹休 征東大将軍 尋陽で呉の別動隊を撃破する 【明帝紀】
10月
曹冏 清河王 死去 【明帝紀】
12月
鍾繇 太尉 → 太傅
曹休 征東大将軍 → 大司馬
曹真 中軍大将軍 → 大将軍
華歆 司徒 → 太尉
陳羣 鎮軍大将軍 → 司空
司馬懿 撫軍大将軍 → 驃騎大将軍
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